1月のひと

蔦森樹(つたもり・たつる)
{1960.獅子座〜}

「自分さがし」だの「自己実現」だのというコトバをよく耳にする昨今です。
が、この人ほど真摯に切実に、文字通り血の滲むような思いで「本当の自分」を模索し続けた人物を、私は知りません。
もとはかなりマッチョなタイプの男性であり、バイク関係のライター。
現在では、長い髪も美しいたおやかな女性として、作家・大学講師の仕事を通じ、個人の生き方やありようを簡単に疾病名(××障害など)に置き換えてすましてしまおうとするこの社会に、警鐘を鳴らし続けておられます。
まさに、現代日本のトランスジェンダーの旗手であり、体現者といえるでしょう。
女性であることに安住している私にとって、セックスとジェンダーと性アイデンティティに関する難しい問題は、はっきり言って手に余るものがあります。(もちろん、そういう自分がいかに幸運であったか、ということには気付かせていただきましたが。)
しかし、この人の著作と行動には、紛れもなく、痛みを生き抜いたひとが持つことのできる優しさと強さとを感じます。
そして、何があっても相手を信じていられるという素晴らしい能力に裏打ちされた、自分を支えてくれた周囲のひとたちへの率直な感謝も。
何度も書いておられる通り、おそらく育った環境ゆえに、「持病のようなクセ、さみしがり」でありながら、「夢みる天使の翼はいらない。それよりも、この世で思いきり踊ることのできる金色の蛇革スニーカーが欲しい」と言い切ることのできる蔦森さんを、私は限りなく尊敬します。
それにひきかえ、自分はまだまだ甘いな、と思いつつ。
私がここであれこれ書くよりも、まずは、日本のジェンダー論のバイブルと言うべき「男でもなく女でもなく・・・本当の私らしさを求めて」を読んで、蔦森さんのことを知って下さい。文庫版で出ていますから。
次に、投書とのQ&Aで構成された、「21世紀恋愛読本」に取りかかりましょう。そこには、あなたと同じような悩みを抱えた質問者が何人かいて、大所高所からの冴えた、しかし包み込むような温かさのある蔦森さんの回答の言葉に、きっと「ベルリンの壁が崩壊したような」思いをされることでしょう。
そしてそのあとは、小説「愛の力」で、蔦森さんの獲得された世界を堪能して下さいますように。




睦月の句

冬晴や厩舎に入る郵便夫

客死せる詩人の墓標竜の玉

七種の優しき雨となりにけり

寒禽のこゑ聞いてをり籠の鳥

胎の子へ寒九の水をのみくだす

ピノキオの鼻の伸びゆく霜夜かな

毛皮着て遠き町へは行かぬなり

YOU TUBE きりなく流し冬籠

めつむりてより凍鶴となりにけり

日脚伸ぶ四つに畳む処方箋


今月の長い蛇足

「あやの雪女」

さつきからまた雪が降つてゐる。
・・・こんな日は、かあさまもさぞお寒からう。
あやはさう思ひながら、まつ白い障子を透かして外を窺つた。
たよりなげな陽の光が、あとからあとから降つて来る雪でちらちらして見える。かと言つて、まるきり暗くもならないので、本降りといふわけでもないらしい。
・・・かあさまの出て行かれたのも、こんな降りのときであつたの。
あやは、まだ幼かつたその日のことを、はつきりと思ひ出すことができた。
あやのかあさまは、家を出たきり、たうたう戻つて来てはくれなかつたのだ。
本降りにはなるまいと思つてひとりで山に入り、「しまき」に巻かれたか、「しづり」に打たれたか、とにかく戻れなくなつたのだ、とぢいさまやばあさまは言つた。
とうさまは、そのとき何と言つたのか忘れてしまつたが、あやをぢいさまのところに預けて、ぢきに新しい嫁を取つた。だからあやは、ふた親をいちどきに失くしたことになるのだ。
けれどもあやは、それからもずつと、いつの日かかあさまは戻つて来るのではないかと思ひ続けてゐた。
とりわけ、雪がこんなふうに降る日には、一日ぢゆう障子の前に座り、それが動いてかあさまの入つて来るのをじつと待つてゐるのだつた。
・・・かあさまは、やつぱり雪女になつてしまはれたのぢやらうか。
いくつの冬からだつたか、あやは、かあさまが山で雪女になつて暮らしてゐると思ふやうになつた。あやの記憶の中のかあさまは、それほどに色白で美しく、どこか哀しげな人だつたのだ。
・・・雪女なれば、寒くなぞなからうか。けれど、山の中にひとりきりでは、いかにもお淋しからう。なればこそ、炭焼きや樵夫のところに現れたりされるのぢや。あやも、雪女のかあさまで良いから、会いたいのう。
あやは、かあさまがゐなくなつてからのことを、順々に思ひ出してみた。
村の子供らにみなしごと言はれ、からかはれたこと。かあさまを捜しにたつたひとりで山へ行かうとして、ぢいさまに叱られたこと。やさしかつたばあさまが、患つて死んでしまつたこと。黴臭い土間の隅で、わけもなく泣いたこと・・・。
つらいこと、悲しいことがあるたびに、あやは、かあさまはいま山でどうしてゐるだらうかとか、自分を迎へに来てくれないのはなぜだらうかとか考へた。
だが、いくら考へたところでしやうがない。かあさまは今日までずつと来なかつた。戻つても、迎へにも。
・・・雪女になつて、あやのことなぞ忘れてしまはれたのかもしれん。案外雪女とは、人間よりもよほど幸福なものかもしれんて。
いつのまにか障子からは雪の模様が消え、いちめん暗くなつてゐた。本降りに、しかも吹雪になつたらしい。
・・・おお寒や。
あやはさう言つて、わづかに開いてゐた障子を閉めやうと立ち上がつた。
障子の桟に手をかけたとたん、それまで味はつたことのない、ふしぎな胸騒ぎがした。
・・・かあさまぢや。たうたうかあさまが来られた!
ためらはず、あやは障子を開け放つた。
するとそこには、目の前には、あやが幾度も幾度も夢に見た通りの、かあさまの姿があつた。
雪女のかあさまは、若く美しいままで、それはそれはやさしく微笑んで、あやを手招きしてゐた。

「お婆ちゃん、そんなに開けっ放しでうたた寝してたら、カゼをひきますよ。ねえ、お婆ちゃんたら・・・・・・。」



(そのまた蛇足)
苦しいなあとは思いますが、蔦森樹にちなんで、理想(?)を求めつつメタモルフォーゼするひとのイメージを描いてみました。
そう。この話の「あや」は、今度は自分が雪女となるのです。・・・って、作者自らオチをバラすようではイカンですねえ。(笑)

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